徳岡 神泉

【とくおか しんせん】



徳岡 神泉は、日本の画家。京都府生まれ。本名、時次郎。

写実を発展させ、神泉様式とも表現される幽玄かつ象徴的な独自の日本画は、戦後の日本画に大きな影響を与えた。作品全体に深い印象を与える繊細な地塗りも有名。1966年(昭和41年)文化勲章。

1896年(明治29年)2月14日、京都市上京区に生まれる。
1909年(明治42年)に土田麦僊の紹介で画塾竹杖会に入り、画を学び翌年には京都市立美術工芸学校絵画科に入学。
卒業までの4年間に、金牌、銀牌を獲得するなど優秀な成績を修め、卒業制作の『寒汀』は学校買い上げの栄誉を受けた。
その後、京都市立絵画専門学校へ進学する。

しかし、ここまで順調であった神泉だが、思わぬ挫折を味わうことになる。当時の京都画壇では、官展に入選することが画家としての第一歩と考えられていたしかし落選してしまう。1918年には自身会心の作として『魚市場』を出品するが、これも落選してしまい、大きな衝撃を受ける。同級生などはみんな入選している中なかなか入選できないのでしばらく人と会うことすらいやになってしまう。

1920年(大正9年)に結婚。この頃、号を神泉と改める。
号の由来は名園として知られる神泉苑から。その後静岡県庵原郡富士川町に移り住むも、初めからやり直すことを決心し、京都に戻る。そして、再び竹杖会に入塾する。

1925年(大正14年)第6回帝展に『罌粟(けし)』が初入選。初出品から約12年も経ってのことだった。

その後、第7回、第8回とそれぞれ『蓮池』、『鯉』が帝展特選を受賞。1930年(昭和5年)には帝国美術院無鑑査の資格を得るなど、自信を取り戻した。しかし、本人は「展覧会に入選してから絵らしい絵を描くようになってしまった」と、この頃の画と自分を省みている。

1938年(昭和13年)、新文展審査委員。1939年(昭和14年)、第3回新文展に『菖蒲』を出品。絶賛され文部省買い上げとなった。
また、この頃の作品から神泉様式とも呼ばれる独自の画風の確立が見え出し、戦後の飛躍へとつながる。

1947年(昭和22年)に『赤松』を出品。当時は、その日本画の花鳥諷詠さが省略され、赤松の幹が二本描かれているだけの作品に、「これが本当に日本画なのか」と疑問の声も挙がった。しかし、この作品は神泉様式を決定づける戦後初期の傑作であり、また、この頃の作品から神泉の代名詞とも言える繊細な地塗りの効果が現れ始めた。その後、日展を中心に作品を出品。対象の内観まで入り込んだ写生とも言われる、独自の画風を確立させた。
1951年(昭和26年)『鯉』で日本芸術院賞を受賞。
1957年(昭和32年)には日本芸術院会員となる。

1961年(昭和36年)、代表作『仔鹿』を出品。その極力単純化されたフォルムと、重厚かつ幽玄な雰囲気は、神泉様式の一つの到達点を示した。
1963年(昭和38年)には東京、大阪で初の自薦展を開催する。
1966年(昭和41年)文化勲章を受章。この頃から体調の不安を訴えるようになるも、画業を続ける。しかし、1971年(昭和46年)には体調がすぐれず、画業がまったく捗らなくなってしまう。

1972年(昭和47年)6月9日、尿毒症と腎不全により死去。76歳。従三位銀杯を賜った。

徳岡神泉のデータ

  • 京都市上京区出身
  • 生誕:1896年2月14日
  • 死没:1972年6月9日(76歳没)
  • 国籍:日本
  • ジャンル:日本画

徳岡神泉の主な作品

  • 『狂女』1919年頃 東京国立近代美術館)
  • 『椿』1922年頃 同上
  • 『後苑雨後』1927年 京都国立近代美術館
  • 『菖蒲』1939年 東京国立近代美術館
  • 『芋図』1943年 同上
  • 『赤松』1947年 同上
  • 『流れ』1954年 京都市美術館
  • 『赤松』1956年 東京国立近代美術館
  • 『枯葉』1958年 京都国立近代美術館
  • 『仔鹿』1961年 東京国立近代美術館
  • 『富士山』(未完)



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