富岡 鉄斎

【とみおか てっさい】

富岡鉄斎

富岡 鉄斎は、日本最後の文人と謳われる。

耳が少し不自由であったが、幼少の頃から勉学に励み、はじめ富岡家の家学である石門心理学を、15歳頃から大国隆正に国学や勤王思想を、岩垣月洲らに漢学、陽明学、詩文などを学ぶ。
山中静逸(信天翁)と出会いをきっかけに、画業で生計を立て始めた。
このときに私塾を開設。

維新後の30歳から40代半まで大和国石上神社や和泉国大鳥神社の神官を勤める。
座右の銘である「万巻の書を読み、万里の道を往く」を実践し、日本各地を旅した。
明治7年(1874年)には、松浦武四郎との交流から北海道を旅し、アイヌの風俗を題材にした代表作「旧蝦夷風俗図」を描いている。

30歳で中島華陽の娘と結婚。長女が生まれるが妻とは死別。のちに再婚し長男を授かる。
明治14年(1881年)、兄 伝兵衛の死に伴い京都薬屋町に転居し、終の住処とする。

教育者としても活躍し、明治2年(1869年)、私塾立命館で教員になる。
明治26年(1893年)、京都市美術学校で教員に就任し、明治37年(1904年)まで修身を教える。

大正13年(1924年)大晦日、持病であった胆石症が悪化。京都の自宅にて死去する。享年89。

画業は歳を重ねるごとにしだいに認められ、京都青年絵画研究会展示会の評議員(1886年)、京都美術協会委員(1890年)、京都市立日本青年絵画共進会顧問(1891年)、帝室技芸員(1917年)、帝国美術院会員(1919年)と、順風満帆だった。
この間の明治29年(1897年)に田能村直入・谷口藹山らと日本南画協会を発足させ南画の発展にも寄与しようとした。また今尾景年を通して橋本雅邦と知己となり、明治関東画壇との交流も深まった。
鉄斎は多くの展覧会の審査員となったが、自らは一般の展覧会に出品することはあまりなかった。明治30年以降、自らが評議員である日本南画協会に定期出品している。賛助出品という形で、大正9年(1920年)聖徳太子御忌千三百年記念美術展に「蘇東坡図」を出している。また大正11年(1922年)、大阪高島屋で個展を開催している。

「最後の文人」と謳われた鉄斎は、学者(儒者)が本職であると自認し、絵画は余技であると考えていた。また、「自分は意味のない絵は描かない」「自分の絵を見るときは、まず賛文を読んでくれ」というのが口癖だったという。
その画風は博学な知識に裏打ちされ、主に中国古典を題材にしているが、文人画を基本に、大和絵、狩野派、琳派、大津絵など様々な絵画様式を加え、極めて創造的な独自性を持っている。彼の作品は生涯で一万点以上といわれる。

80歳を過ぎてますます隆盛で、色彩感覚の溢れる傑作を描いた。
生涯を文人として貫き、その自由で奔放な画風は近代日本画に独自の地位を築き、梅原龍三郎や小林秀雄らが絶賛。
日本のみならず海外からもいまなお高い評価を受けている。

兵庫県宝塚市の清荒神清澄寺の鉄斎美術館と、西宮市の辰馬考古資料館に多くの作品が収蔵されている。

富岡鉄斎のデータ

  • 京都府出身
  • 生誕:1837年1月25日
  • 死没:1924年12月31日(89歳没)
  • 国籍:日本
  • ジャンル:日本画

富岡鉄斎の主な作品

  • 『阿倍仲麻呂明州望月図』『円通大師呉門隠栖図』(1914年)(国の重要文化財)辰馬考古資料館蔵
  • 『二神会舞図』東京国立博物館蔵
  • 『旧蝦夷風俗図』(1896年)東京国立博物館蔵
  • 『富士山図屏風』(1896年)清荒神清澄寺蔵 紙本著色 六曲一双
  • 『妙義山・瀞八丁図屏風』(1906年)布施美術館蔵 絹本著色 六曲一双
  • 『不尽山頂全図』
  • 『蓬莱仙境図』
  • 『弘法大師像図』
  • 『蘇東坡図』
  • 『河内千早城図』湊川神社蔵
  • 『武陵桃源図』(1923年)
  • 『瀛洲遷境図』(1923年)
  • 『阿倍仲麻呂在唐詠和歌図』足立美術館蔵

ページトップ