1874年長野県飯田市に生まれた。本名は三男治(みおじ)。
1890年に東京美術学校に入学。
春草は一学年上の大観、観山とともに、当時美校校長であった岡倉天心の強い影響下にあった。過激な日本画改革論者であった岡倉天心には反対者も多く1898年、天心は反対派に追われるように東京美術学校校長を辞任した(反対派のまいた怪文書が原因だったとされる)。
当時、美校の教師をしていた春草や大観、観山も天心と行動を共にして美校を去り、在野の美術団体で日本美術院の創設に参加した。
春草、大観らは、1900年前後から、従来の日本画に欠かせなかった輪郭線を用いないで無線描法を試みた。この実験的画法は世間の非難を呼んだ。《菊慈童》などが「朦朧体」の典型的作品である。
1907年には「官」の展覧会である文展の第1回展が開催されたが、この時出品した、色彩点描技法を用いた《賢首菩薩》も手法の革新性のため、当時の審査員には理解されなかった。
このように、伝統的な日本画の世界にさまざまな斬新な技法を導入し、近代日本画の発展に尽くした画家である。
菱田春草は満37歳という若さで病死した。
菱田春草のデータ
- 長野県伊那郡飯田町(現・飯田市)出身
- 生誕:1874年9月21日
- 死没:1911年9月16日(36歳没)
- 国籍:日本
- ジャンル:日本画