
竹内栖鳳は明治~昭和期の日本画家。最初は棲鳳と号した。
近代日本画の先駆者で、画歴は半世紀に及び、戦前の京都画壇を代表する大家である。帝室技芸員。第1回文化勲章受章者。
1864年、京都に生まれた。1877年(明治10年)に四条派の土田英林に絵を習い始めるが、17歳の時(1881年)に同派の名手として知られた幸野楳嶺の私塾へ正式に入門する。
この頃から頭角を現し、翌年には私塾の工芸長となった。楳嶺四天王の筆頭と呼ばれるようになる。
23歳の時(1887)に結婚し、これを機に絵師として独立する。1889年(明治22年)には京都府画学校に出仕し、京都の若手画家の先鋭として名をあげてゆく。また36歳の時(1900年)には、7か月かけてヨーロッパを旅行し、ターナー、コローなどから強い影響を受けた。
49歳の時(1913年)に「帝室技芸員」に推挙されることで、名実共に京都画壇の筆頭としての地位を確立した。
昭和に入っての戦時下では軍部に協力の姿勢をとっていたが、終戦前の1942年(昭和17年)に77歳で死去した。
竹内栖鳳のデータ
- 京都府京都市出身
- 生誕:1864年12月20日
- 死没: 1942年8月23日(77歳没)
- 国籍:日本
- ジャンル:日本画
- 受賞
- 文化勲章(1937年)
- レジオンドヌール勲章(1924年)
- 選出:帝室技芸員、帝国美術院